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何故「アクセシビリティ」に拘るのか

よく「障害はひとつの個性に過ぎないんだよ」という人がいる.私はこういった考え方の半分に反対し,半分に賛成している.何故反対するのか.なんだかんだ言ってみても,どう考えても「障害」と「個性」という言葉の間には大東市と観音寺市くらいの距離があるように思うから.日常生活をする上で何らかの障害があるから「障害者」の皆さんがいるわけであって,それは決して個性ではない.障害の度合いが違うということもやっぱり「日常生活をする上での障害のレベルの差がある」という考え方である.半分に賛成しているというのはこういう言い方だったら論理的に理解できるからである.

「障害を持った人でも個性がある」

これなら分かる.実際に障害を持った方と接する機会が多いわけだが,障害者だからといって「してもらうのが当然」みたいな顔をしている人に対しては「健常者」が同じことをして軽蔑するように,やっぱり私はその「障害者」を軽蔑するだろう.ちなみに私は昔からしていた活動の関係でよく子どもと話をしていたが,決して「子どもは天使」だなんて一度も思ったことは無かった(笑顔を見るのは好きだけどね).「純真無垢」なんてことは逆にフィルターがない分人に対して残酷なことを躊躇なくして,物事を豪速球で投げてくるということが肌身にしみて分かっているからである.これと同様に「障害者はみんな善人」なんてこれっぽっちも思ったことはない.たとえ障害を持っていることが気の毒に思うことはあっても,その人柄が嫌な奴だったら付き合いたくは無い.「車いすにのった脳性マヒの人が詐欺をした」もしそんなことがあったら,私はその行為を行なった人のことは同情しない.会社に入ってからは学生のときに知らなかった「社会のえげつなさ」みたいなもんも見たのでなおさらである.でも,たとえ事故によって胸損になって「普通に」セックスができなくなっても,やっぱり大学時代からの友人であるW県のOさんとは今でもバカなエロ話はするし,真剣に障害者の性の問題なんかを電話でよく話をする.友人関係においては障害があるというのは確かに遊ぶときに「アクセシビリティ」の問題が「障害」にはなることもあるけど,それを補って余りある「何か」があるんだろうな.と,最近ふと感じた.

なんで「アクセシビリティ」に拘るのか.それは簡単,自意識過剰なこんな私のホームページをより多くの人に見てもらいたいから,というところに帰着してしまうのである.簡単なことである,要はより多くの人に「露出」したいだけのことである.というのも半分真実であり,半分嘘である.どう考えても会社の連中にこのサイトを見られるということは自分の「パンドラの箱」を開けられてしまったことに他ならず,おそらく会社の台風の目となること間違いなしである.ちなみに台風の目では風は吹かないし,雨も降らないものさ,ベイベー.

どこぞのだれぞが言い出した,IT音頭に乗せられパソコンを,買ってみたのは良いけれど,1年以上使ってない♪というのが現状であるこの国,ニッポン!光ファイバーも10年前に埋めとけよ!このやろ.大体だね,私が小学生の頃(17,8年前)から光ファイバー,光ファイバーって当時の電電公社が耳タコなほどに言っていたのになんて様だい!!これ以上壊れるとホントに分からなくなりそうだから.ここからはまじめにコラム書くから.「まじめモードに変わりました」(注:トーキングエイドの「だんせいおんにかわりました」の声で).

で,「アクセシビリティ」だが,やっぱり障害者でも健常者でも何かして「楽しみたい」やん,いろんなところ行きたいやん,いろんなことして遊びたいやん.ちなみに私はパソコンを使うのは「遊びのための道具」であり「仕事のための道具」なんである.まぁ,ときどき「コレクトするグッズ」と化することもあるがそれはご愛嬌.もちろんインターネットの大海原にカヌー一隻で漕ぎ出していろいろなサイトに遊びにも行く.学生時代にはあまり無かったことなのだが,社会人になって情報収集のツールとして本格的に使うようになった.というのが本来のインターネットの楽しさ,便利さなんだろうけど,なにせ学生のときは自分の好きな作家のページに言ってメールを出して喜んでいたりとほとんど「ちゅーぼー」状態であった.

以前書いた「Lモード問題,こんな考え方はどうよ」に書いたことの繰り返しになるのだが,アメリカや韓国ではこのようなことが言われている.どんなにパソコンが社会に行きわったったとしても約30%の人は使用することができない,イコール,インターネットを使用できない,イコール,情報格差(デジタルデバイド)が生じる.この問題に関して,ときには直球で,ときには変化球で,なぜかときには牽制球を織り交ぜながら問題解決の道を探す,なんてことも「秘密基地」の一つの目的であるのだ.私の家にパソコンや各種OSや開発ソフトなんかがあちこちに転がっているのはその目的に向かってそれだけ自分が近づけるかという目標があるからなのである.しかしながら目標というやつもかなり曖昧なもんで,ときには単なるパソコンコレクターと化してしまうこともあるし,1年以上プログラムを書くのを止めてると文法が分からなくなってしまうし,「はじめてのC」なんて恥ずかしいタイトルの本を読んでみたりして「う~ん,CはめんどいなVisual Basicで無難に作るか」なぁんて妥協してみたり,そんなこんなしてるうちに興味がPDAに行ってしまってとうとう先日念願のH/PC,ヒューレッドパッカード社製Jornada690を衝動買ってみたり,買ったそばからPalm欲しいって駄々こねたり,いくら頂上がみえていてもわたしはまるでその下を巡りつづける超巨大なメリーゴーランドに乗っているようなもんである.

とはいうものの実際問題として情報格差は生まれてしまうと思うし,それは仕方が無いことだと思う,だって今だってそうじゃない.たまたまそれが「インターネット」って伝達媒体に変わるだけのことなんだから,目が見えなきゃTVは見えないし,耳が聞こえなきゃラジオは聞けない,肢体不自由があったら本だって読めないことはあるし,知的障害があれば文字が読めない場合だってあるんだから,それになんたって我が香川は民放5局でそれなりに情報入ってくるけど,青春の地徳島は民放1局よぉ,市内なら関西圏や香川の電波入るからいいけどそれこそ「あの事件」を起こした秘境の近辺に行ってみ,ホント情報量少ないから.ただ,少なくとも情報量の減少を最小限に食い止めることが私の使命(「かんちがい」と読む)だと思うのだ.ただ,そのための手段が見えては隠れ,そしてまた現れって具合にいろんなものがあるから,今日もまた日本橋に行ってしまうのである.最近は梅田近辺で我慢することも多いが.

ということでこの文章においての「アクセシビリティ」ってのは,何らかの手段を用いて「インターネット上にある情報の獲得のしやすさ」とちょっぴり強引に定義してしまおう.だって,i-modeだって,EZwebだって,J-Skyだって,さらに,ドット-iだって,ONCだって,ブラウザホンだって,そして,L-modeだって,みんなインターネットを利用した情報獲得手段の方法の数々なのだ.今だって休みになったらi-modeで梅田でやってる映画のチェックするし,チケットの予約しようとして失敗ばかりするし.そこにはあくまで「i-mode」を使ってるのであって「インターネットバリバリ使ってるんだぜ」ってことは隠されてしまっているのである.この隠されてるっていうのが重要だと思うのである.だれだってテレビ見るのに電波の伝達方式やら電気回路やら気にしながら観てる人はいないでしょ,あっ言い切っちゃだめだね,そういうことに興味がある人くらいのもんでしょ.

それが大切.インターネットはパソコンという呪縛に縛られているのである.だからこそ「アクセシビリティ」が高まるはずも無い訳で,できればTVの感覚で,本を読む心境で,音楽を聴くかのように,芝居を観に行く前のうきうきした気持ちでインターネットに接することのできる「アクセシビリティ」を私は求めているのだ.それを作ろうとしているのだ.その道はまだまだ険しくきっと遠いんだろうなぁ.なんていってるうちに案外あっさりできちゃったりしてねぇ.

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