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アイコンとシンボルコミュニケーション

3月24日,ついにというかやっとというか,Mac OS X狂想曲に乗っかって発売日当日に思わずMacOS Xを買ってしまった.正直問題点ばかりが目立ってしまう,というのが私の感想である.(なんかClassic環境のためとはいえ,「今OS Xをかうと9.1が付いてくる!」みたいな感じもどうかなぁと思うしぃ)もっとも昨年β版がリリースされた当時から賛否両論だったわけで,このような見方になってしまうのは仕方の無いことなのかもしれないのだが….自分の掲示板にも簡単な感想はかいたのであるが,最近仕事で関わることの多いシンボルコミュニケーションと,パソコンのアイコンという点から文章を書いてみたいと思う.

この文章を書くにあたって「MAC POWER4月号」に掲載されている「Mac OS進化の系譜」を参考にしたことをあらかじめ記載しておきたい.今回のそのコラム,題目は「ヒューマンこそが優れたインターフェースを生み出す基準」となっており,OS Xのアイコンのあり方について鉄槌を食らわしている.もともと80年代のApple社にはMacintoshだけでなく,あの名機“AppleII”も含めた形で,「Human Interface Guidlines:The Apple Desktop Interface」というガイドラインが設けれられていた.内容は非常に哲学的かつ実務的なものであったらしい.のであるが,OS 8が発売されたころからガイドラインの内容が実務的なものだけになってきた.そしてOS Xにおいてとうとう「哲学的」な部分がほとんど見えなくなってしまった.というのが簡単にまとめた要約であり,〆は「美しければいい…わけでは決してない」という意味深なことばで締めくくられている.詳しくは同誌を読んで頂きたい.

「美しいものはすばらしい」それはそう思う.自分の顔だって不細工よりは美しく作られていたほうがうれしいのは誰もが考えていることだと思う.では「美しければいい…わけでは決してない」とはどんなことを意味しているのだろうか?

お話がちょっと変わるが私は某福祉用具の商社に勤めている.もともとは開発がやりたかった人間である(というか今でも何かの形で開発を行なう心の用意はできているつもりである).会社に入る前,最終面接の際前社長の言っていたことが印象に残っている.

「今,日本に売られとる車いすを見てみ.あんなカッコの悪い車いすで高級レストランに入れますか?やっぱりかっこよーなかったらあかんわな」

こんなことをおっしゃっていたのである.そのことはまさに真理をついてあると思う(実際に某ドラマ終了後某メーカーの「常盤貴子モデル」の車いすは売れたらしい).そして入社後,今度は新人研修の際には別の方から本当の真理を知ることになるのである.曰く,

「福祉用具の美しさはデザインの美しさではない.あくまで人間のあり方を追及した形で必然的に生まれたものが結果として本当に美しいデザインとなっている」

このことばを聞いたとき私は目からうろこが落ちた.一応曲がりなりにも福祉工学を研究して,知的障害児や聴覚障害児が使うためのソフトウェアを作っていたが,それは自己満足だったのか,そんな気さえした瞬間だった.

さて,知的障害児ということばが出てきたところで話を本題に序々に戻していこう.文字やことばを理解できない人たちが人とコミュニケーションをとる,そのときにそのような手段を用いるであろうか.それはときとしてボディランゲージであったり,ときとして表現する手段が見当たらず自傷・他傷行為におよんだりすることもあるが,一般的に良く使われているのは絵カードを用いた「シンボルコミュニケーション」である.具体的には今後公開されるであろう「パソコン事典」に各シンボルの特徴みたいなものを簡単に記載しているので,そちらを見ていただければ若干でも「シンボルコミュニケーション」が分かっていただけると思う.

この「シンボルコミュニケーション」のあり方というのが非常に「Human Interface Guidlines」に書かれてある内容に似ているのである.例えば「実世界からのメタファーを使う」であったり,「一貫性を保つ」であったり,「フィードバックして対話する」であったり,「寛容性を持つ」であったり,「美的洗練を目指す」であるのである.こうして考えてみるとアイコンとシンボルコミュニケーションは似ているもんだな,などと感じてしまったのである.

福祉の世界はやはりMacintoshがそれなりの地位を占めていた.それは誰にでも分かりやすく,使いやすいパソコンであったということから当然の成り行きであった.もちろん医療現場や教育現場にMacintoshが大きく入り込んでいたことも多く関係していることは間違いの無いことなのであるが,圧倒的に使いやすかったことが現場に受け入れられたものであると私は考えている.当時,つまりは日本語版のMac OSが漢字Talkと呼ばれていた頃,今のMac OS Xに比べて美しかったかどうか?美しいMac OS Xのグラフィック,凝りに凝ったDockやアイコン,パッと見には否である.ところが,実用性という点からみると圧倒的に漢字Talkの方が直感的に分かりやすく,誰にでも使いやすいOSだったと思うのである.

そこに見られるもの,それこそが「機能性を追及した上での美しさ」だと思うのである.学生時代から今この仕事をしながら考えていることが私にはある.それは本当の意味での「誰とでもコミュニケーションをとれるツール」を作り出すことである.コミュニケーションとは人間間にのみ存在するものではない.対機械(パソコン)のコミュニケーションだってあるはずなのである.肢体不自由者や視覚障害者,聴覚障害者向けのパソコン入力装置はようやく出揃ってきた.市場がようやく動き始めてきたという感じを受ける.今足りないのは「知的障害を持った方向けのパソコン」であり,「高齢者が簡単に使うためのパソコン」であると感じるのだ.まぁ「パソコン」といって良いかどうかはわからないが,ただぼんやりとそのようなものの必要性を肌に感じているのだ.そして,わたしがここで断言できること.それは残念ながらMac OS Xにその役目はきっと回ってこないだろう,ということなのである.

パソコンはマニアのためのものではない.誰にでも使えて初めて「パーソナル・コンピュータ」と言えるのではないか?Macintoshはマニアのためのコンピューターに成り下がってしまった.かつて革新的に「パーソナル・コンピューター」を作っていたApple社.その会社が今このようなことを考えさせてしまう,その事実が今は哀しい.

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