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2001年3月

アイコンとシンボルコミュニケーション

3月24日,ついにというかやっとというか,Mac OS X狂想曲に乗っかって発売日当日に思わずMacOS Xを買ってしまった.正直問題点ばかりが目立ってしまう,というのが私の感想である.(なんかClassic環境のためとはいえ,「今OS Xをかうと9.1が付いてくる!」みたいな感じもどうかなぁと思うしぃ)もっとも昨年β版がリリースされた当時から賛否両論だったわけで,このような見方になってしまうのは仕方の無いことなのかもしれないのだが….自分の掲示板にも簡単な感想はかいたのであるが,最近仕事で関わることの多いシンボルコミュニケーションと,パソコンのアイコンという点から文章を書いてみたいと思う.

この文章を書くにあたって「MAC POWER4月号」に掲載されている「Mac OS進化の系譜」を参考にしたことをあらかじめ記載しておきたい.今回のそのコラム,題目は「ヒューマンこそが優れたインターフェースを生み出す基準」となっており,OS Xのアイコンのあり方について鉄槌を食らわしている.もともと80年代のApple社にはMacintoshだけでなく,あの名機“AppleII”も含めた形で,「Human Interface Guidlines:The Apple Desktop Interface」というガイドラインが設けれられていた.内容は非常に哲学的かつ実務的なものであったらしい.のであるが,OS 8が発売されたころからガイドラインの内容が実務的なものだけになってきた.そしてOS Xにおいてとうとう「哲学的」な部分がほとんど見えなくなってしまった.というのが簡単にまとめた要約であり,〆は「美しければいい…わけでは決してない」という意味深なことばで締めくくられている.詳しくは同誌を読んで頂きたい.

「美しいものはすばらしい」それはそう思う.自分の顔だって不細工よりは美しく作られていたほうがうれしいのは誰もが考えていることだと思う.では「美しければいい…わけでは決してない」とはどんなことを意味しているのだろうか?

お話がちょっと変わるが私は某福祉用具の商社に勤めている.もともとは開発がやりたかった人間である(というか今でも何かの形で開発を行なう心の用意はできているつもりである).会社に入る前,最終面接の際前社長の言っていたことが印象に残っている.

「今,日本に売られとる車いすを見てみ.あんなカッコの悪い車いすで高級レストランに入れますか?やっぱりかっこよーなかったらあかんわな」

こんなことをおっしゃっていたのである.そのことはまさに真理をついてあると思う(実際に某ドラマ終了後某メーカーの「常盤貴子モデル」の車いすは売れたらしい).そして入社後,今度は新人研修の際には別の方から本当の真理を知ることになるのである.曰く,

「福祉用具の美しさはデザインの美しさではない.あくまで人間のあり方を追及した形で必然的に生まれたものが結果として本当に美しいデザインとなっている」

このことばを聞いたとき私は目からうろこが落ちた.一応曲がりなりにも福祉工学を研究して,知的障害児や聴覚障害児が使うためのソフトウェアを作っていたが,それは自己満足だったのか,そんな気さえした瞬間だった.

さて,知的障害児ということばが出てきたところで話を本題に序々に戻していこう.文字やことばを理解できない人たちが人とコミュニケーションをとる,そのときにそのような手段を用いるであろうか.それはときとしてボディランゲージであったり,ときとして表現する手段が見当たらず自傷・他傷行為におよんだりすることもあるが,一般的に良く使われているのは絵カードを用いた「シンボルコミュニケーション」である.具体的には今後公開されるであろう「パソコン事典」に各シンボルの特徴みたいなものを簡単に記載しているので,そちらを見ていただければ若干でも「シンボルコミュニケーション」が分かっていただけると思う.

この「シンボルコミュニケーション」のあり方というのが非常に「Human Interface Guidlines」に書かれてある内容に似ているのである.例えば「実世界からのメタファーを使う」であったり,「一貫性を保つ」であったり,「フィードバックして対話する」であったり,「寛容性を持つ」であったり,「美的洗練を目指す」であるのである.こうして考えてみるとアイコンとシンボルコミュニケーションは似ているもんだな,などと感じてしまったのである.

福祉の世界はやはりMacintoshがそれなりの地位を占めていた.それは誰にでも分かりやすく,使いやすいパソコンであったということから当然の成り行きであった.もちろん医療現場や教育現場にMacintoshが大きく入り込んでいたことも多く関係していることは間違いの無いことなのであるが,圧倒的に使いやすかったことが現場に受け入れられたものであると私は考えている.当時,つまりは日本語版のMac OSが漢字Talkと呼ばれていた頃,今のMac OS Xに比べて美しかったかどうか?美しいMac OS Xのグラフィック,凝りに凝ったDockやアイコン,パッと見には否である.ところが,実用性という点からみると圧倒的に漢字Talkの方が直感的に分かりやすく,誰にでも使いやすいOSだったと思うのである.

そこに見られるもの,それこそが「機能性を追及した上での美しさ」だと思うのである.学生時代から今この仕事をしながら考えていることが私にはある.それは本当の意味での「誰とでもコミュニケーションをとれるツール」を作り出すことである.コミュニケーションとは人間間にのみ存在するものではない.対機械(パソコン)のコミュニケーションだってあるはずなのである.肢体不自由者や視覚障害者,聴覚障害者向けのパソコン入力装置はようやく出揃ってきた.市場がようやく動き始めてきたという感じを受ける.今足りないのは「知的障害を持った方向けのパソコン」であり,「高齢者が簡単に使うためのパソコン」であると感じるのだ.まぁ「パソコン」といって良いかどうかはわからないが,ただぼんやりとそのようなものの必要性を肌に感じているのだ.そして,わたしがここで断言できること.それは残念ながらMac OS Xにその役目はきっと回ってこないだろう,ということなのである.

パソコンはマニアのためのものではない.誰にでも使えて初めて「パーソナル・コンピュータ」と言えるのではないか?Macintoshはマニアのためのコンピューターに成り下がってしまった.かつて革新的に「パーソナル・コンピューター」を作っていたApple社.その会社が今このようなことを考えさせてしまう,その事実が今は哀しい.

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幸せな最期(映画「ワンダフルライフ」雑感)

今回は日本映画「ワンダフルライフ」の感想を書かせていただきます.

この作品,本当は一昨年映画館で観ようと思ったのですが,観るのを忘れてしまって,去年の夏休みにビデオで観ました.説明力不足の文章ながら簡単に内容を書きますと,
「あなたは死んでしまった.ここは死んだ人間の来る施設.あなたは1週間の間に『一生のうちで自分の最も印象に残った思い出』を選んで,そのシーンを映画で再現して,その思い出だけを胸に天国に旅立ちます.」
という舞台で繰り広げられる人間模様を描いた作品と書いたら良いのかなぁ…

これだけを書くと現実性の無さそうな単なるファンタジー映画に思えるでしょ.でも違うんだなぁ.この映画の面白いところは実際に何百人もの人に「一生のうちで自分の最も楽しかった思い出」をアンケートしてまわって,その中の十何人かは映画に出演もしているということに尽きるでしょう.ある意味「ドキュメンタリー」であるし,それに「ファンタジー」なストーリーもついてくるっていうお得な映画です:).

正直いうと「ファンタジー」的な部分,ストーリーはありきたりだったかなぁ,という気がしなくはありません.設定自体はよくできてたし,「映画のツボ」はしっかりと押さえられているので,涙腺の弱い私はうるうる来たのですが,あとから冷徹に鑑みると新鮮さはあまり感じられなかったかなぁと.

ただ面白かったのはそれを補って余りある「ドキュメンタリー」な部分.これがストーリーの間に巧い具合にポンポン入ってくるんです.これがまたいいタイミングで編集されてたから映画全体はめっちゃ引き締まってていい感じです.
#実際2時間を越える長尺だから引き締まってるってのは重要なポイント!

出演されている素人さんのシーンはホントのインタビューって感じで,逆に演技してない部分がリアリティを生んでいた.それがとっても面白かったです.是枝監督はドキュメンタリーを中心にもともと活躍されていたというのを後で知って妙に納得.絶妙でした.特に終盤,実際に「思い出」を再現するための映画撮影のシーンがあるんだけど,そのシーンが個人的に最も印象に残ってるかな.小さい頃のダンスの発表会のシーンを選んだおばちゃんが実際に子どもに演技指導する場面や,訓練飛行の場面を選んだおじさんの「こんな感じじゃなかったですね」とスタッフにダメ出しする場面は,妙に微笑ましかったり,不思議な緊張感があったり興味深いものでした.

先ほど「ストーリー自体はありきたり」と否定的なことも書いたけど,映画の中では見事に溶け込んでいるから違和感は感じませんでした.予算の少なさを逆手に取って現実感をだしつつ強烈な透明感のある画面が象徴的でした.
#あの透明感は全くタイプの違う映画だけど「1999年の夏休み」の透明感を感じたのと同じくらい新鮮だった.

つまるところこの映画はドキュメンタリーとかフィクションとかの垣根をモノの見事に破壊,じゃないな「融合」かな,させているという点がすばらしい,ということに尽きるかなと.一筋縄ではない面白さがある映画でした.

最後に蛇足的ではありますが,あの去年の状況下でこの作品を観たんです(生きていく自信を失ってた頃ね).見終わった後に自分にとって今まで一番の思い出ってなんだったかなぁ,なんて考えました.よく考えたら楽しかった思い出ってあんまり記憶に残ってなくて… つらかったことや苦しかったことが頭に出てきたのですケド.これから楽しい思い出をいっぱい作りたい,そう考えることで逆に生きていく希望を与えてくれた,そんな映画でした.是枝監督,すばらしい作品をありがとうございました.

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「アーチスト」と「エンターテイナー」

久々に「アート」「エンターテイメント」関連のネタで文章を書く気になりました.実は私の先輩が会社を辞めて,ちょっと遠いところに行かれるらしいからなんですな.この先輩にはホントお世話になりました.会社では恥ずかしくていえないけれど,あえてこのような形でお礼を言わせて頂きます.ありがとうございました.私のやりたかったことを仕事にしていた人だったし,一緒にセッションをしてドラムを叩かせていただいたり,楽しい2年間でした.

さて,この先輩と同行で営業をやっていたときに交わした会話,それが今回のコラムで書こうと思っていることです.それは「アーチスト」と「エンターテイナー」の違いについてということなんです.先輩は自分で曲を書くし,ギターもはっきり言ってめちゃ巧い.自分はあくまで「アーチスト」だと言う,そんな方です.ホントはプロの道も目指したらしいことをそっと告白してくれたのですが,あくまで「社会人」として自分を見つめて音楽活動を続けようと思ったそうです(この人,実は映画も詳しくて自主制作映画を作ったかなりのツワモノであります).

そのとき私が言ったのは「私はできるなら『アーチスト』より『エンターテイナー』になりたいです」ということでした.芝居は下手,ドラム叩くとドカドカうるさいだけ,小説や詩を書いてもまるで散文のこの私がこのようなことをのたまってしまったわけです.はっきり言うと笑うしかない状況ではありますが,この気持ちは今でも持っていますよ,私は.

私が思うに「アーチスト」と「エンターテイナー」の違いはベクトル向きの違いだと思うのですね.基本的に「アーチスト」は自分を表現するってことであって,あくまでその方向は自分自身の内側に向いています.もちろん,その方向は人によって様々ですので,たまたま時流と表現したいことがぴったりはまってしまったとき,それが「アーチスト」であり「エンターテイナー」であると言える状況かもしれない.もしかしたらそんな瞬間がありきたりな言葉でいうと「カリスマ」が誕生するときなのかな,そんな気がします.

一方,「エンターテイナー」の向かう方向はあくまで外向きでなくてはならない.人を楽しませることが出来なきゃいかんのです.某演歌歌手の「お客様は神様です」という台詞,これが「エンターテイナー」のあるべき姿だと思うのです.で,私が笑っちゃうことにこれになりたいと思ってるわけ,無いものねだりかな:),まさしく.でも,人形劇やってたころから自分の目指してきたことは,あくまで「エンターテイナー」でありたいってことだけは確かなんですよ.人形劇の脚本書いたときだって自分のメッセージをなんとか織り込みながら,あくまで観に来た子どもたちに楽しんでもらうか,そればかりを考えて書いたことを思い出します.

で,この考え方から行くとやっぱり先輩は「アーチスト」だったのかな,と思うわけです.実際に先輩の曲とか演奏とか聴いてるとそんな気がします.自分を見つめるってのは楽に見えて結構苦しいもんです.それを突き詰めて鬱になったこの私が言うのだから間違いは無いです:).そこでたまったパワーを曲にしてたんだなぁ,と今更ながら感じております.

ここからが実は書きながら考えたことなんですが,先ほど書いた「カリスマ」の誕生する瞬間のお話.これってかなり残酷なことやなぁ,と感じました.だって,これじゃ逃げ場所というか安らぎの場所というか,そんなものが全くなくなってしまう状況じゃないですか.だからこそ「カリスマ」と呼ばれる人達は夭逝してしまう人が多いのかな,そんなことを考えたのでした.

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拳を握るな,ペンを取れ!

こんな風に趣味で文章を書いてていつも思うことは,なんで私はこんなに文章力がないもんなかねぇ,ということなのである.はっきり言ってしまうと,思い立ったときにちょちょいと文章を書いて,推敲なんか全くしないで,勢いだけで書いてしまってるからなのだが.詩みたいなものや,小説の真似事をしてるときはある程度整理をつけてから文章を書いてるから,それなりに時間もかかるんだけど,こんなコラム風の書き物の場合,ジャズのアドリブみたいな感じで頭に思い浮かんだ言葉をそのままペンに,じゃないな,キーボードに叩き込んでいるのである.

誤字・脱字はふざけとるのかと言われるほど多いし,バカをそのまま露呈してしまっているときや,はたまた昨年の夏ごろはパラノイア状態で文章を書いてたもんだから,後から振り返れば,相当恥ずかしくイタいものであるが,これが生き様だ,となんとか自分に言い聞かせて日記を書いてるような気持ちで文章を書いているのである.

さて,こんな感じなので私は真面目な文章を書くのが極めて苦手なのだ.会社への報告書やら企画書やらを書くこともあるが,どうにもそういった類の文章は書きにくい.なんとか先輩方に「書き方」を教えてもらってどうにか文章にしているような具合である.大体入社2年にして始末書を3枚も書いているやんちゃぶりなもんだから,はっきり言ってしまうといらんことしいの役立たずなのだ,私は.それはともかく,あの「携帯電話紛失事件」の始末書はまさしくあの文章のダイジェストとなっており,仲の良い連中にはウケたのだが,当たり前のことながら上司には不評であった.確信犯的に狙ってやったことだったから良いんだけどね.

じゃ,なんでこんな私が文章を書いているのか.うまくは書けないけどどうにか自分を表現できるのが今のところこの方法しかないからかな.芝居やら音楽もやってきたけど,自分を表現してるって感じじゃなかったし.気が向いたときにこんな風に文章を書ければまぁいいかなぁと.私はパンクは大っ嫌いなんであるが,なんだかんだでパンクっぽい文章をかいてしまう自分自身に腹を立てながら,そんな自分を可愛がっているんだよ.単なるナルシストであり,はっきり言ってしまうとマス掻いてるだけなのだ.

私は何をやっても微妙に中途半端で,喧嘩は弱いし,パフォーマンス能力は低い,プレゼンテーションは苦手,そんなもんだから頭にくることがあっても,それを人に表現することも苦手なのだ.そんなときは引きつった笑顔を浮かべて,脳みその中が涙で満たされてるのだよ.人を殴ることは怖いし,怒られることも大嫌い.そんなときにはこんな風に文章を書いて人を笑わせたり,たまには泣かせてみたり,ときには心配させてみたり,ちょっとだけ納得させてみたり,そんな風にエモーショナル度抜群の文章を書きたいなぁ,そう思いこの文章を書いてみた.やっぱり推敲はしないよ,勢いで書いたから.

ということでまとまることなく果てしなく,タバコを吹かしながらだらだら書いた文章で失礼.そんな私がこんな文章を書く上で心がけよう思うこと,それが今回のタイトルの「拳を握るな,ペンを取れ!」な訳だ.ネタはいくつか上がってきてるから気長に見てほしい,こんな私だけど.

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